わが町への想い

一里塚弁財天

 

  一里塚弁財天の場所



 

岸和田市の文化財 本町の一里塚とは

 昭和54年度の「本町一里塚弁財天大法会」で配布された「本町一里塚辨戝天」という冊子にある出口神曉氏の文章に注釈を加え、現代文に改編したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一里塚の成り立ちや本町の一里塚

 紀州街道の市役所別館から約300メートル和歌山側に本町会館と本町地車小屋があります。そこに「一里塚弁財天」と刻まれた石柱があります。


 一里塚といえば、「門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という一休禅師が詠んだという句が思い浮かびます。しかし、実は、一休禅師が生きた室町時代にはまだ一里塚というものはありませんでした。


 一里塚の成り立ちについては諸説がありますが、通説では、江戸幕府の命により慶長9(1604)年2月、江戸日本橋を基点として36町(1町は約109メートル)を一里(約3.9キロメートル)と定め、一里毎に一里塚を築造し、榎や松などを植えさせたと言い伝えられています。
 これらの塚は、陸路を旅する人や重荷を運ぶ牛馬を休める休憩所であり、また人々が春の日、夏や秋の夜などに、昔を語り今を伝えて数々の話題に花を咲かせ語り明かす集いの場所であったと考えられます。

 

 この一里塚はいつ頃から岸和田の町にできたのでしょうか。

 

 寛文年間(1661年~1673年)の地図にこの一里塚の所在が印されています。また元禄年間(1688年~1704年)の地図に次のような記載があります。
 「春木札の辻より岸和田一里山まで廿四丁十二間、岸和田一里山より貝塚御堂中辻まで十一町四十五間」、これを見ると、岸和田藩では一里塚を「一里山」と呼んでいたようです。


 同様に、藩によっては一里塚を「一里松」、「一里山」、「一本松」などと呼んでいました。この地図にも「磯上と忠岡一里塚、助松と高石の間に一里塚云々」と書かれているので、このような塚を「一里山」、「一里塚」と呼んでいたことが分かります。

 

 

一里塚と弁財天


 ところで、この岸和田の一里塚は、元々、現在の所在地よりも若干北側の元岸和田市長の毛利氏邸の近傍にあったと伝えられています。それは、同氏が所有していた老松が古くから「一里松」と呼ばれていたことが物語っています。


 萬治(1658年~1661年)、寛文(1661年~1673年)の頃に一里塚が弁財天とともに現在の場所に移されました。
 この弁財天は天保7(1836)年8月頃建立され、天保10(1839)年頃に改造されています。


 封建時代には、一に秘密、二にも秘密といわれた城下町の中央に、しかも城の二の丸の真下に、万人の休憩所とした一里塚があることは歴史上珍しいことで、誇るべきことです。また、そのような場所に民間信仰として弁財天を祭ったことは不思議ではありません。

 

 

 

 

 

 

【注釈】

・距離の単位:1里は36町、1町は60間、1間は6尺。1尺は約30.3センチメートルであるので、1里は12960尺、3.927 キロメートルとなる。

・札の辻:街道や宿場町など往来の多い場所に高札を立てた道・辻。

・弁財天の祠は、築城前は現在の土生町のあたりにあったと伝えられている。天保時代に現在の本町に移された。

 

 

弁財天(べんざいてん)とは

 弁財天は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(梵語)の漢訳(「薩羅薩伐底(さらさばてい)」)で、仏教に取り込まれた呼び名です。日本では神仏習合(神道と仏教の融合)によって様々な変容を遂げ、美音天、妙音天、大弁功徳天、弁天などとも呼ばれ、弁才天と記載されることもあります。

 形像に八臂(腕)で弓、杵などの法器をもったものと二臂で琵琶をひくものとがあります。

 インドでは、川、弁説、学問の神として信仰され、仏教では、その無限の弁才によって仏法を流布し人間に幸福と子孫をもたらす神とされています。

 日本では池・川など水辺に祭られ、中古以来、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と混同されて島に祭られることがあり、江戸時代に七福神の一つとなったと考えられます。詩歌・音楽を司る女神とされ、弁財天と書かれるのはこれが財宝をもたらすと解釈されたためと考えられています。

 昔から、金華山(宮城)、江の島(神奈川)、竹生島(滋賀)、天の川(奈良)、宮島(広島)の弁天堂が五大弁天として知られています。

 

岸和田市本町 一里塚弁財天の縁起

 一里塚弁財天に掲示されている「縁起」の原文を、本町弁天講会長の指導のもと、現代語に訳し、注釈をつけました。原文はその内容から、昭和16年頃に書かれたものと思われます。

 

縁起の原文

 

 当社の弁財天様は国家鎮護と隆盛を本願とされ、その昔、道路に一里(4キロメートル)の距離の目安として、一里毎に松や榎の木を植え、その下に小さな祠を建てた時代に鎮座され、人々はこれを一里塚弁財天として崇めるようになりました。
 当地にお城が築かれてからは、街も繁栄し、これを信仰する人々も加わり、天保7年8月に有志が相談して、一里塚とともに社殿を建て遷座しました。

 その霊験は著しく、天保10年頃に社殿を改造・拡大し、嘉永5年に弁天堂を作り、毎月7日を祭日とし、心学道話1)や軍記物語などを伝える会合を催して、町民の精神修養の道場としていました。
 ところが、幕末に世情が不安定であったことや、維新後の国運の飛躍と神仏毀棄2)の影響で、不本意にも信仰心が薄れていきました。明治41年頃、予想もしなかったことに一私人が占有物にしようと企てましたが、町の有志が親交会を立ち上げ、苦労の末、遂に元通り確実に本町の共有物とすることができました。

 今回、国の事業として国道・幹線道路の新設に際し、境内の一部がその要地となるため、現在の狭隘な敷地内に移動せざるを得ないこととなりました。(弁財天様には)国家、社会のためとお受け入れ下さることを祈願する次第であります。
 そもそも、「神は人の敬によりて威を増す3)」と古人の名言にあるように、ますます信仰を厚くして、いよいよその威を増されることを確信するとともに、伏して願うものであります。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

【用語解説】

1)心学道話:人生哲学・処世訓を説く講話。筆録も多種版行された。
2)神仏毀棄:神仏分離と廃仏毀釈を結合させた言葉と考えられる。
   神仏分離: 神道の国教化政策を行うため、明治政府が明治元(1868)年、神社から仏教的な要素を排除しようとした政策。
   廃仏毀釈: 神仏分離令などの実施によっておこった寺院や仏像・仏具などの破壊運動。
3)「神は人の敬によりて威を増す」:これは鎌倉幕府の「御成敗式目」の第一条に書かれている「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」を引用したものと思われる。「神様は人々の崇敬をうけて、そのご威光を増し、人々の敬う力で御神威を高める。神様の徳によって人が生命や運を与えられる」という意味。

 

一里塚弁財天の昔話


弁財天の松


 昔、現在の土生町に、天女が舞っているような姿をした優雅で大きな松がありました。里の人たちは、この松の木の根もとに弁財天の小さい祠(ほこら)を建てて、稲が実れば初穂を供え、春には山の若菜を供え、大切にお祀りしていたと伝えられています。


 ある年の秋、長雨が続いて、この辺りのほとんどの田んぼが泥をかぶり、稲の育ちも悪くなりました。それで、男も女も子供まで泥まみれになり、一生懸命稲を起こしていると、「院(先代の天皇)が熊野にお詣りになるため、この地をお通りになる。道を整えておくように」と叫ぶ役人の声が馬の蹄の音とともに聞こえてきました。

「お乗りものが滞りなく通行できたら、祖(税金)、庸(労役)を減免するご沙汰があるだろう。励めよ」

 里の人たちは「わー」と喜びましたが、里長の保近は真っ白になった眉を寄せ、一人思案にくれました。

「あと、十日しかない。津田川に架かる橋は古くなって土台もぐらついているし、この雨で流されてしまうとどうなるのか。厳しいお咎めを受けるにちがいない」


 保近が指揮をとり、村中の若者を集めて橋の修理にとり掛かりましたが、想像以上に難しい工事でした。轟音を響かせながら溢れる川水は、何千、何万の狂った馬が駆けるような勢いで、板一枚、杭一本も打つことができないまま、工事は少しも進みませんでした。
 「この雨さえ止めば」身も細る思いで願いましたが、三日経ち、五日経っても天地は暗く、毒矢のような雨、雨、雨でした。

 

「間に合わない」保近は天を仰いで唇を噛みました。「ご行列は府中にお入りになった。皆、心してお迎えするように」と役人の触れ回る声が、慌ただしく土生の里を駆け抜けていきました。


 「頑張れよう、縄を張れ、杭を打て」と励ますように保近が大きな声で叫んだ途端、橋がぐらっと傾き、黒い水が一気に橋桁を乗り越えました。「ああー、もうダメだあ」とその時でした。雄叫びのような川音とともに、弁財天の御真言が人々の耳を打ちました。

 

「おんそらそば ていえいそわか おんそらそば ていえいそわか 私の命に代えて、この橋をここに残して下さい」

 

 保近は渦巻く水の流れに身を投じました。すると、間もなく大木が流れ下ってきて、今にも押し流されようとしていた橋にぴったりと寄り添うように止まりました。よく見ると、それは紛れもなく里の松、弁財天の松でした。「この橋をここに残して下さい」血を吐くような保近の声に若者たちはわれにかえりました。

「橋を起こせ」、「おう」その松の木を足場に縄を引き、杭を打ち、板を並べ、何とか橋をつなぎ止めました。
 しかし、保近の姿はどこにもなく、川下一帯を声を限りに名を呼び探しましたが、答える声はありませんでした。やがて、院の行列は何事もなかったかのように橋を渡り、貝塚へと進みました。


 ゴーと一瞬、雷が鳴り響き、稲光して橋が砕けました。空高くまで立ちこめる水煙の中でもがいているのは、なんと大きな竜でした。鎌首をもたげてゆったりと泳ぎだした竜の背中に、五色の雲に包まれて弁財天のお姿がありました。そのたおやかな腕に保近の亡骸が横たわっていました。「おお里長」、「保近どの」一斉にひれ伏した里の人たちが口々に唱える御真言のどよめきに包まれて、竜と化した弁財天の松は、遙かな茅渟(ちぬ)の海に流れ去ってしまったそうです。

 

 その後、弁財天信仰がさらに深まり、後世、本町の一里塚に迎えて祀られてから弁天講が組織され、現在に至っています。

 

【注釈】

・真言(しんごん):サンスクリット語のマントラ(Mantra)の訳語で、「(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意味。

 

 

 

 本稿は、岸和田市市制70周年を記念して出版された「岸和田のむかし話(岸和田市発行)」に掲載されている「弁財天の松」と題した物語に注釈を加え、現代文に改編したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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